◆ 今年のトレンドは科学的な瞑想「マインドフルネス」!その2

 瞑想は、そもそもあれこれ考えるものではなく、経験するものです。
 いろいろと考えるより、実際に実行してみることの方が重要です。基本的に重篤な副作用があり得ないものは、実行してみる方が賢明です。ただし、うつ病など精神的な問題を抱えている場合には、専門家の指導の下に行なうべきです。また行なってみて、どうしても合わない場合は中止してください。

歩いて行なう歩行瞑想
 じっとして行なう瞑想が苦手な人には、マインドフルネス・ストレス低減法(MBSR)では、歩いて行なう「歩行瞑想」もあります。通常の瞑想では、呼吸に注意を向けますが、歩行瞑想では、歩いている行為や感覚に注意を向けます。
 歩行瞑想は、散歩とは異なります。散歩は、足を動かすことで、頭もよく働くようになるので、考えごとなどに向いています。考えごとと瞑想は違うものです。西田幾多郎やカントなど哲学者は、散歩を日課としていました。西田幾多郎は、京都・東山をよく散策していました。「哲学の道」は、西田幾多郎にちなんで名付けられました。カントは毎日同じ時間に同じ道を散歩していたので、それを見た人が時計の針を合わせたと言われています。
 マインドフルネスの創始者カバットジンは、歩行瞑想を行なう際に、歩いている際の足の感覚や体全体の動きに注意を向けるように指導しています。前だけを見て、歩いていること に集中するため、周囲に注意が向かないような場所を選びます。部屋の中や庭など同じ場所をゆっくりと行ったり来たりします。雑念が浮かんできたことに気づいたら、また「歩いている」という行為に注意を戻します。

雑念について
 実際に行なってみて、よくある疑問は、「いろいろ雑念が浮かんできて無になれないがそれでもいいのか」というものです。これは、瞑想や禅とは、「無になる」ことで、雑念など浮かばない状態だという思い込みが原因の誤解です。「無になる」と思うこと、それ自体が「雑念」なのです。
 瞑想中に、雑念が浮かんでくるのは当然で、それらにとらわれずに、ただ流していく、というのが、瞑想における正しい姿勢です。むしろ次々と浮かんでくる雑念は、歓迎すべきもので、それらの雑念にとらわれずに流していくことで、知らず知らずのうちに「無」の状態になります。雑念こそが、いわゆる「無の境地」に導いてくれるガイドなのです。
 この無の状態の瞬間には、「ああ、今が無の状態だ」と認識することはありません。そう認識すること自体がすでに無の状態ではないからです。瞑想を終えたときに、今回は無の状態になったと感じるだけです。もちろん無の状態にならなくても問題ありません。
 瞑想に対する感じ方や感想は、人それぞれです。ですから他人の感想に引きずられる必要はありません。他人が感じた、いかにも瞑想の手本のような感想や結果をうらやましく思う必要もありません。そういう意味では、専門家の指導を仰ぐのが理想といえます。

参考図書など
 宗教的な側面を除いた科学的な瞑想法には、いくつかあります。その中で、昨年あたりから俄かに注目されるようになったのが、マインドフルネス・ストレス低減法(MBSR)なのです。
 そのマインドフルネス・ストレス低減法を実際に試してみようという方は、NHKスペシャルのキラーストレス第2回(2016年6月19日)の解説  http://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
 または、マインドフルネス・ストレス低減法の提唱者であるカバットジンの著書「マインドフルネス ストレス低減法」J. カバットジン 春木豊訳 北大路書房 を参考にしてください。

アドバイス
 科学的瞑想法全般について、私からのアドバイスとしては、続けることに意味があるので、習慣化してしまうのが得策です。
 また、時間は、長ければ長いほど良いわけではなく、1回5分から20分で、1日2回までで良いこと、何らかの理由で中断した場合は、悪びれず再開すればいいだけだと考えて構いません。
 そもそも中断したら、破門されるような、いわゆる修行ではありません。今日1回5分できたら、何かしらいい、と思えばよく、続けていくうちに、何かしらの効果らしきものを実感できたら、それはそれで、さらに続ける励みになります。
 効果らしきものを実感できなくてもそれはそれで構いません。瞑想をしていること自体に意味があります。瞑想のコツは、とらわれないことなのですから。

※注意
 本ブログの情報は、適切な診断や治療を受ける機会を奪うことを意図していません。また適切な医学治療そのものに取って代わるものでもありません。
 本ブログは、著者個人の意見を明らかにするものです。最終的な判断は読者に任されています。
 本ブログの内容を無断で引用・転用することを禁じます。